イタリア修業&旅行余話

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白山「ヴォーロ・コズィ」  西口大輔会長の話

 

(にしぐちだいすけ)1969年東京生まれ。修業のスタートはフランス料理だったが、イタリア料理に転向。西麻布「カピトリーノ」での修業を経て、93年渡伊。96年に帰国し、代々木上原に「ブォナ・ヴィータ」をオープン。2000年に再び渡伊し、ロンバルディア州「ロカンダ・ヴェッキア・バヴィア」へ。01 年より同店のシェフを務める。06年に帰国し「ヴォーロ・コズィ」をオープン。

人生で一番長く感じた

アッペンディチーテを切った後の

イタリアの夜

僕が初めてイタリアへ行ったのは1993年ですから、もう20年以上前の話です。

ヴェネト州の、あるレストランにようやく修業に入れて「さあ、やるぞ!」と思っていた1か月目のある日、前の晩から痛かったお腹が、朝起きてもずっと痛かったんです。修業の身だからそれでも仕事に行かなくちゃいけなくて、お腹を押さえながら店に向かいました。

立っていられないほど痛くなったので、オーナーに「病院へ行きたい」とカタコトの英語とイタリア語で訴えるのですが、ダメだと。なぜなら、今はとても厳しくなりましたが、当時は多くの外国人がそうだったように、労働ビザを持たないで働かせてもらっていたからです。不法滞在がバレればいろいろ大変なことになりますからね。

オーナーはとにかく我慢しろと。いずれうちのドクターを呼んでくるからというので我慢していたら、経験したことのない痛みがどんどん襲ってきて冷や汗が出てきて、もう苦しくて、苦しくて。イタリア人たちは「紅茶飲め」とか「牛乳飲め」、「ビスケット食べろ」とか言ってくるし、もう、それどころじゃないって(笑)。

ついに限界になって、「もうダメだ」と汗と涙で訴えたら、ようやく車で病院に連れて行ってくれました。オーナーからは「病院にはヴェネツィアに観光で来たと言え」と念を押されたのですが、それを言う前に、病院側からは「パスポートを出せ」と。いつも持ち歩いているわけではないので、「いや、持っていない」「では診られない」との押し問答。「いや、その、痛い、か、ら‥‥」結局、僕は痛さで気絶しちゃったんですよ。目を開けたときはベッドの上で寝ていました。

医者もさすがにまずいと思って診てくれたらしく、「お前は○○○○○だ」と言う。○○○○○が当時はまったくわからなかったのですが、その次に「タリア・パンチャしなくちゃいけない」と言っているんです。料理人なので、タリア=タリアーレ=切る パンチャ=腹 という単語は厨房でも使うのでわかりました。つまり、腹を切るのだな、手術をするのだと理解しました。

ちなみに、先の〇〇〇〇〇は、appendicite(アッペンディチーテ)=盲腸と言っていたことは、後になってわかりましたが。

至急、手術だと言われてもお金はない。保険も入っていないから、慌てて日本の実家に電話をし「かならず返すから」と言って親に送金してもらう約束をしました。

イタリア人はね、手術室でも陽気なんです。ストレッチャーに寝せられて手術室に入ったら、医者、看護師たちがみんな「チャオッ♪」って笑顔で言ってくる。こっちはチャオッって気分にはなれないんですけど、おかまいなしに、イタリア語でなんだかんだと陽気に話しかけてきて、麻酔をかけられて、気がついたら手術が終わって病室でした。

3人部屋で寝ていました。みんな盲腸の人ばかり。すでに夕方5時。切った後も痛いんですよ。傷口を見ると、ホッチキスでパチパチパチッと止めてあるだけ。痛いから看護師さんを呼ぶと、痛み止めを打ってくれて。でもまだやっぱり痛い。病室も外も暗いし、まわりはみんなイタリア人のおじいちゃんだし。早く朝にならないかな、と祈りました。寝られなくて、夜が本当に長かった。これまでの人生で、本当に、一番長い夜でした。

夜が明けて、看護師さんがまた「チャオッ♪」と朝ごはんを運んでくれたときは、彼女が天使に見えました。あのときの「紅茶とチーズ」も、おいしかった。でも、それからもずっと、朝昼晩と「紅茶とチーズだけ」が続くだなんて、そのときは思いもしませんでしたけどね。